クリス・ヘッジス『リベラル階級の死』第1章 抵抗(2)

怒りの感覚と裏切られた感覚——アーネスト・ローガン・ベルや大勢の職のない労働者たちが表現しているのは、これである。これらの感情は、過去30年間にわたってリベラル階級が労働者階級および中産階級の最低限の利益を保護できなかったことから生じている。その間、企業は民主国家を解体し、製造業セクターの息の根を止め、アメリ財務省からカネをぶん取り、戦費もまかなえず勝てもしない戦争を行い、一般市民の利益を守る基本的な法律を骨抜きにした。にもかかわらず、リベラル階級は、政策や問題について控えめな言葉で語り続けている。 リベラル階級は企業による襲撃に反抗することを拒否している。このような理由で、右翼のほうが、職を失った人びとによって明らかになった正当な怒りを捕えて表現している。

古典的リベラリズムは、概して、封建主義と教会権威主義の解体に対する反応として定式化された。 古典的なリベラリズムは、法の支配の下での不介入と独立を求めた。そして、 古典的リベラリズムは、 ペリクレスソフィストたちによって表明された古代アネ哲学のいくつかの側面を具現化しているが、アリストテレスの思想と中世神学の双方とは根本的に断絶した哲学体系でもあった。哲学者、ジョン・グレイによると、古典的なリベラリズムは、

4つの基本的な特徴あるいは視座をもっており、これが目に見えて分るアイデンティティを与えている。 古典的なリベラリズムは、一人の人間はいかなる集団に対しても倫理上最優位にあると主張する点で個人主義的であり、全ての人間に同一の基本的な倫理上のステータスを与えるという点で平等主義的であり、諸人種の倫理上の一体性を認める点で普遍主義的であり、批判的理性を以ってすれば人間は際限なく向上することができると主張する点で改善主義的である*1
Liberalism (Concepts in the Social Sciences)

Liberalism (Concepts in the Social Sciences)

トマス・ホッブス(1588-1679)、ジョン・ロック(1632-1704)、バールーフ・スピノザ(1632-1677)は、古典的リベラリズムの基礎を築いた。これらの理論家たちの仕事は、18世紀にスコットランドの道徳哲学者たち、フランスのフィロゾーフたち、アメリカ民主主義の初期の建設者たちによって拡張された。ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)は、19世紀にリベラリズムを再定義し、富の再配分と福祉国家の推進を求めた。

19世紀の後半と20世紀の初期に栄華を極めた自由主義の時代は、工場における労働条件改善に取り組む大衆運動、社会改革の成長、労働組合の組織化、女性の権利、普通教育、貧困層への住宅供給、公衆衛生キャンペーン、社会主義によって特徴づけられた。この自由主義の時代は、第一次世界大戦で事実上終結した。この戦争は、人間の進歩の必然性に関するリベラルな楽観主義を断ち切り、その上、経済的、政治的、文化的、社会的問題に対する国家と企業によるコントロールを強化した。戦争は、大衆文化を創造し、消費社会を通じて自我の崇拝を涵養し、国家を恒久的な戦争の時代に導き、市民を脅してリベラル階級内部の独立的でラディカルな声を沈黙させるために恐怖と大規模なプロパガンダを利用した。フランクリン・デラーノ・ルーズヴェルトニューディール政策は、資本主義システムが崩壊したとき初めて実行されたが、これは、合衆国の古典的リベラリズムの政治的断末魔だった。しかしながら、ニューディール改革は、往々にしてリベラル階級の助けを借りて、第二次世界大戦後数年のうちにシステマティックに解体された。

リベラル階級から生じた突然変異種が第一次世界大戦後に合衆国に現れたが、それは、熱烈な反共主義を是とし、国家安全保障を最優先事項と考えるものだった。その変異種は、人間の本質に対する深い悲観主義を特徴とし、イデオロギー的起源をキリスト教リアリストのラインホルド・ニーバーといった道徳哲学者たちに見いだした(政治的な悲観主義と帝国的冒険主義を正当化しようと目論む人びとによって ニーバーは度たび曲解され過度に単純化されてきたのだけれど)。この種のリベラルズムは、共産主義に対して寛大だと見なされるのを恐れ、価値の体系が国家によるコントロールの増大、労働者の弱体化、巨大な軍産複合体の成長とはますます相容れなくなってきていると表明することで、同時代の文化に地位を確保しようと努めた。冷戦期のリベラリズムが、グローバル化、帝国的膨張、足かせを解かれた資本主義のリベラルな立場からの擁護にシフトするまでには、古典的リベラリズムの一部であった理想の数かずは、リベラル階級を特徴づけるものではなくなっていた。

続いているのは民主的リベラリズムの事実ではなく、その神話である。この神話は、企業の権力エリートたちと彼らの擁護者たちによって、国益や民主的価値観の名の下に他国の支配や利用を正当化するために利用されている。サミュエル・ハンチントンのような政治学者たちは、この民主的リベラリズムの遺骸が彼らが文明度の低いと考える国ぐにに向けて、多くの場合は力によって、輸出可能な生き生きとした哲学的、政治的、社会的な力であるかのように書き記した。リベラル階級は、追いつめられ弱体化し、山積する不正義や企業国家の構造的な横暴と戦おうとする代りに、共産主義の——そしてのちにはイスラム戦士たちの——野蛮性を攻撃する政治的に安全なゲームに興じた。

血の気の失せたリベラル階級は、反証が多数あるにもかかわらず、人間の自由と平等は選挙政治と憲政改革の言葉遊びを通じて達成可能だと強弁し続けている。リベラル階級は、広範な参加型の権力を保証する伝統的な民主主義的経路が企業によって支配されていることを認めようとしない。おそらく、法が、リベラル階級の理想主義的な逃げ場となった。リベラル派は、議会に失望し、政治キャンペーンに真の議論が存在しないことに失望しつつ、法こそが改革実現のための有効な手段であるというナイーヴな信念をもち続けている。企業権力により法システムが操作され、それが選挙政治や立法審議の企業による操作と同様に明白であるにもかかわらず、彼らはその信念をもち続けているのだ。議会を通過した法律は、例えば、経済を規制緩和し、投機へと方向転換させた。法律は、ウォール街に利するかたちで合衆国財務省の簒奪を許した。法律は、人身保護を含む生死に関わる市民的自由を停止し、テロ共謀者と思われる合衆国市民の暗殺許可を大統領に認めた。最高裁は、法的前例を覆し、2000年フロリダの大統領選挙結果の再集計を取りやめ、ジョージ・W・ブッシュを大統領と定めた。

C. ライト・ミルズが言うように、「腐敗し脅かされたリベラリズムは、当てにならない無慈悲な政治的ギャングによって」武装解除された。リベラル階級は、権力エリートに立ち向かうよりも、空虚な道徳的ポーズを取ることのほうが思慮深いことだと考えていた。「市民的自由を称揚することのほうが、それを守ることよりもずっと安全で、市民的自由を形式的な権利として守ることのほうが、それを政治的に効果のある方法で使うことよりもずっと安全だ。これらの自由を覆すことにもっとも意欲的であろう人びとですら、自由の名の下で、通常そのように振る舞う」とミルズは書き記した。「過去に自由を行使した他の誰かの権利を守ることのほうが、「今だ」と今自分が力強く口にするよりもずっと簡単だ。市民的自由の防衛は——たとえそれが10年前の自由の行使についてであっても——リベラルなそしてかつて左寄りだった多くの学者たちの主要な関心事になっている。これらすべては、知識人による努力を政治的反応や要求から逸らす安全策である」*2

The Politics of Truth: Selected Writings of C. Wright Mills

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Death of the Liberal Class

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